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大規模な寺のパレードの中で先頭は特別に大きな“陣頭”(仏教の行事でパレードをする行列の先頭のこと)です。「百足真人」と呼ばれる蜈蚣陣(ムカデ陣)は独特なデザインの衣装をまとい、統一された日傘が陽光に煌く長い行列です。一般の蜈蚣陣は多くても36人か72人中ですが、佳里鎮番仔寮の應元宮は108人と最長の陣頭とされています。現代では人集めも容易ではなく108人を集めるには想像を絶する動員力が必要です。そのため蜈蚣陣は定期的に行われる“刈香(線香分け)”というイベントで、西港慶安宮が三年に一回行う“建醮(参拝)”、学甲の慈濟宮が行う“上白礁謁祖(参拝)”、佳里の金唐殿が行う“蕭壟香”の外にはめったに見ることができません。
佳里寧安宮の蜈蚣陣は金唐殿の刈香の専属陣頭で、80年間中断されていた蕭壟香が1987年(丁卯年)に再開された時、新たな隊列が組まれました。
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》清康熙37年(1698)に建てられた金唐殿は300年の歴史があります。伝説によると当初は歸仁の大人廟により線香分けされ三老爺を祀り代天府と呼ばれていました。現在も残る(清朝)乾隆乙酉年の石香爐がその歴史を物語っています。乾隆54年に発生した林爽文の乱を義民達が朝廷に協力して収めたため、朝廷が廟に額を送り金唐殿と名付けました。
》咸豊5年(1855)に場所を新たに再建しようと、嘉義の名匠と言われた葉王により建てられたものが現在の廟で、彫刻も全て残されています。日本統治時代の昭和3年、遠く中国の汕頭から名師、何金龍を呼び修築した際、葉王の交趾焼を切り貼りし、また廟左右の外壁に国父(孫文氏)の肖像を貼り廟の誇りとしました。
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蕭壟香の開始時期については資料不足のため調査は難航しています。1895年日本の北白川貞愛親王が蕭壟で義軍に殺害されたことにより蕭壟大虐殺が行われ、人口が大幅に減少し刈香活動も停止されました。台湾政権復活後、信徒の要望で何度か調整を経て、1978年三年に一回、一回三日間の蕭壟香が再開されるようになりました。 蕭壟香の先鋒部隊である蜈蚣陣は本来番仔寮の應元宮が演じた皇帝巡回の行列でした。刈香が再開された時に主催機関が“三十六天罡陣”と“七十二地煞”の108人の団体にしたいと申し出たのに対し争議が発生し、最終的に寧安宮に蜈蚣陣の組織編制を任せることになりました。 陣頭責任者である王連興氏の話しでは、蜈蚣陣の引継ぎを受けた当初は“三十六天罡陣七十二地煞星”の図資料を求めて高雄まで足を運び陳萬串氏に尋ね、どうしても明らかにならない点については神に尋ねる“擲筊杯(赤い木片を投げる)”方式で決定されました。
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蜈蚣陣の“神令(神の命令)”は刈香の二、三ヶ月前に完成し“開光(開眼)”の時は北西に向かいます。また遠く南海普陀山観世音菩薩に“三十六天罡陣七十二地煞星”の降臨を祈願し、ムカデの頭と尾の製作を始めます。完成すると頭と尾を赤ラインで結び、ムカデが一体であることを表します。さらに星神の子を演じる子役の受付も始まりますが、十二支の関係で雞年生まれの子供は参加できません。一番前や後ろに座る干支は毎回神に采配をゆだねます。座り心地を考えた椅子や全体の美観を左右する日傘の色などが慎重に検討されますが、最も頭を悩ませるのは蜈蚣棚を担ぐチームで、人数や年齢、体力の差を考慮しなければなりません。 刈香が終了すると蜈蚣頭、尾、蜈蚣は全て燃やされ、任務の終了を告げます。過去二回の刈香活動ではムカデの尾を押さえる観世音菩薩に神の奇跡が起き、寧安宮信徒の信仰心が一層強まったと言われています。この菩薩は金唐殿で祭られている神像を寧安宮信徒の希望により分身して彫刻されたものです。菩薩は元来南海普陀山の紫竹林から来たもので、毎回そこを訪れ“過爐”しなければならないため、この祭りが開催される時は毎回南海普陀山に参拝しなければなりません。 蜈蚣陣の108人は最長とされていますが、西港慶安宮が三年に一回開催する王醮大刈香で、溪埔寮と公塭が合同で作る蜈蚣陣が史上最長のものです。
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